可哀想な日本人

 新左翼評論というブログで、靖国問題について討論がありました。これは炎上とか呼ばれているものではなく、きちんと意図的に催されたもので、言ってみれば野焼みたいなものでしょうか。

 私も議論に加わろうと思ったのですが、このブログを一週間ほったらかしにするぐらいですから遅筆なわけで、驚くほど早い流れについていけませんでした。

 ということで、私の靖国観を記しておこうと思います。

…とすると広範すぎるので、戦犯について語りたいと思います。

 極東軍事裁判の判決を受諾することで日本が再び独立国として承認されたというのは事実として誰もが認めるところであります。その判決に至るところ、極東軍事裁判というのがまれに見る一方的な裁判であり、弁護人がつかないなどといったとんでもない過程において行われたこともまた周知の事実であります。

 その中で、国際軍事裁判所条例A項「平和に対する罪」の罪人が裁かれたこともまた有名ですが、その裁判の中に日本人がおらず、処罰まで下されてしまったところに問題の深さが存在すると思われます。

 私は、日本人が処罰を下しても有罪になる人間はいると思っています。近衛文麿などは戦術戦略的ミスを犯しているわけで、2度も総理になっていて日中戦争の状況を悪化させて、日独伊三国同盟を締結し、日ソ不可侵条約を締結し勝手に辞職してしまう(結果自決されましたが)結果的に日本の本土に米軍の戦闘機が来て空襲になる、焼け野原になるという事態を引き起こしました。こういう人は同じ日本人から見ても有罪ではないでしょうか?

 しかし、結果としてそのような裁判は戦勝国により勝手に行われ、断罪されました。日本人がこの戦争の清算を行うことができなくなったのです。なぜか?日本は神道という特殊な思想が文化としてあり、死者に対してはその罪を問わず、同じように祀ります。つまり、亡くなってしまったらその人を罪に問う、断罪するようなことはほとんど行われません。例として、平将門や、西郷隆盛があげられるでしょうか。

 法律においても、人々の認識においても戦犯の話に決着がつかないのはここらへんに問題があるのではないかと思っています。日本人が日本人の戦争責任の持って行き場所を失ってしまっているのですから。

 ドイツはナチスヒトラーにその罪を背負わせています。日本もそうできればよかった。それなら楽だった。しかし、もし日本人が日本人に戦争責任を問うても禊の精神で曖昧な決着しか生まずさらにややこしかったのかもしれません。対外的には。しかし、国内においては現在のような問題は残さなかった気もしています。

 ただ、日本人が戦争の責任について、負けたことについてどうとらえるか?それを考える意味でも日本人による日本の戦争責任がきちんと取られなかったことは、日本にとって不幸であり、可哀想ではないかと思うのです。

 アメリカなど他の国の責任は?という話もあるでしょうが、極力国内だけで抑えてみました。アメリカが外交的に戦争をするつもりだったのも事実ですし、その他植民地を東南アジアに植民地を構える国が日本にプレッシャーを与えていたことも事実です。しかし、一度国内だけで問題を眺めることも必要ではないかと思って書いた次第です。

追記:評価を行わないわけではありません。しかし、評価を行えるのは政治学者・歴史学者であり、私たちは客観的な歴史として見る事をし、主観的な感想を持つことで個人個人が評価を行うということしかできないのです。

 あと、もう一つ謝るのは、この文章、オチがありません。結論がない文章です。ごめんなさい。