人を疑うということ

 米国からの年次改革要望書が話題になって久しいと思ったのですが、Wikipediaで見ると昨年の11月ということであるみたいですね。
 私も米国との関係はつかず離れずが望ましいと思っていますのでこんな要望は蹴ってしまえと、日本に要望を出す前に自分らがしっかりしろと言いたいのですが、2004年に出された要望書の最後にですね、こうあるのですよ「米国政府は、日本国政府に対し本要望書を提出できることを喜ばしく思うと同時に、日本からの米国に対する改革要望を歓迎する。」と。

 あくまで日本語の仮訳だからかもしれません。ちょっと原語の分が見つかっていませんので確認できていません。しかし、2005年も締めに同じような言葉があり、米国の圧力とはいえ、そこまで強い圧力には思えません。
 問題なのは、それに対して日本が要望書を出しているのかどうか?ということと、それに対して日本はアメリカと同様の対応をしているのかということです。もちろん、米国に対して要望書を出していながら向こうが対応しないのであれば日本も対応する必要はありませんし、役人が呼び出されるのであれば、日本も国会に呼んでやればいいのです。少なくとも、この書面からは米国の圧力に屈したというものは見えません。

 どちらかというと、私は改革好きな小泉首相が米国の要望に乗っただけの気がします。これは大きな違いです。圧力に屈したのと、提案に乗ったのでは主役が違いますし、立場関係も大きく変わってきます。

 それにおいて、米国の圧力で郵政民営化やその他構造改革があったとか、それならまだしもその他の事、外交なども米国の言いなりだとする論には賛同できかねます。米国が悪いと言ってしまうのは正直楽なのです。本来の日本人は優しくて誠実で…それなのに米国のせいで…となる。

 米国がいいとは言いません。米国は間違っていないとは言いません。しかし、自分の思い通りにならないことをすべて人のせいにするのはいかがなものでしょう。相手にきちんと言えるように自分はしっかりする。これこそが日本人の美徳にも則した対応方法なのではないでしょうか?